歌舞伎町の歴史
歌舞伎町は、第二次大戦後の戦災復興の時期に誕生した。角筈(つのはず)一丁目の北東部とその周辺、百人町一丁目・西大久保一丁目(東大久保三丁目)・三光町の境界付近を区画整備し、1948年4月1日に歌舞伎町(現在のように丁目のついた町名ではない)として起立。当時の歌舞伎町の範囲は、おおむね現在の歌舞伎町一丁目(西側の鉄道敷設部分とその沿線、および区役所通りより東をそれぞれ除く)に相当する。1978年の住居表示実施に伴い町名町域が変更され、歌舞伎町の全域(および百人町一丁目・三光町・角筈一丁目の各一部)が歌舞伎町一丁目に、西大久保一丁目のほぼ全域(および東大久保一丁目のごく一部)が歌舞伎町二丁目となり、現在に至っている。
大部分は新宿区発足前には旧淀橋区に属した地域(三光町は旧四谷区、角筈一丁目の一部も淀橋区発足までは旧四谷区)である。元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と長崎藩邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。1893年淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成される。1920年には東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校)がこの地に開校。学校を取り巻く周囲は静かな住宅街として開発されていった。
1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、第二次大戦後、「現在の歌舞伎町一番街付近に歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、この都市計画から、新しい町は「歌舞伎町」と名付けられた。結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまったものの、歌舞伎町は東京でいち早く戦災復興を成し遂げ、「全首都復興の月桂冠」と讃えられた。 その主役となったのは在日華僑たちであり、博覧会会場として利用されなかった空き地を資金を出し合って買い、現在の隆盛の一翼を担ったのは有名である。その一人にヒューマックスの創始者である林以文がいる。キャバレーの経営者にすぎなかった彼の成功物語は神話となっている。
1952年には西武新宿駅が開業。西武新宿線は新宿駅東口に乗り入れる計画であり、当初は仮駅であった。1977年には現在の西武新宿駅駅ビルが完成し、新宿プリンスホテルと西武新宿ペペが営業を開始した。バブル期に新宿駅東口乗り入れ計画が再び浮上したものの、歌舞伎町商店街振興組合や新宿サブナード(新宿地下駐車場株式会社)等が反対。バブル崩壊の影響もあり結局実現しなかった。現在一日約19万7,000人の乗降客があるターミナル駅として機能している。
現在では様相はさらに変容し、3,000軒を数えるバー、キャバレー、ラブホテルなどが密集し、「欲望の迷宮都市」「外国人労働者の新租界」等とも評されている。歌舞伎町は世界でも有数の夜の盛り場に数えられていて、近年では、中国や韓国からの観光ツアー客も多く、昼間はよくツアーコンダクターが導く姿が見かけられる。西新宿のオフィス街や出張サラリーマンの息抜き、学生コンパなどの格好の場となっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
眠らない町の代表ですね。痛ましい歌舞伎町ビル火災を思い出しました。
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